代表挨拶

ご覧いただいている皆様へ

皆様
こんにちは
丸平建設株式会社代表取締役 渡辺隆 です。

この度は、当社のホームページをご覧頂きまして
誠にありがとうございます。

私たち丸平建設は、「顔の見える家づくり」をモットーに、練馬区を中心とした地域で、皆様と家族のようなお付き合いをさせて頂いております。 私の挨拶ということで、生い立ちから現在に至る丸平建設の想いを知って頂きたく、ペンをとりました。

私の生い立ちと友人・恩師


父は、役人の息子として生まれました。戦時中無線電信講習所(現在の電気通信大学)を出ましたが、戦後仕事を求めて、当時叔父の勤める和歌山県新宮市にある丸平(まるひら)製材所(屋号の元です)にて働き、母と知り合うことになったようです。

昭和30年に江戸時代から渡辺家(元祖は浜松市あたり出身ですが)が暮らしていた東京に出て(赤坂に暮らしていたとか)、丸平木材を立ち上げました。父は当時を振り返り、かなり苦労をしたと言っています。

そして、この練馬の地に来てから2年後の昭和32年1月29日に、厳格な父と快活な母の間に第二子長男として私は生まれました。



小学校の低学年まで、畑をはだしで駆け回り、野原で草野球をして近所の窓ガラスは割ったり、人の家の屋根に登り怒鳴られたり、私はわんぱく真っ盛りの日々を過ごしておりました。
因みに、「肥溜め」には2回ほど落ち、家に入れなかったことも。また、「聞かん坊」だったため、母にお灸をすえられたこともあります。当時は、未だに残るたくさんの傷をあちこちに負い、父、母の心配の種だったようです。


確か小学校4年生位のときだったと思います。父に霞が関のビルに連れて行ってもらった時に、『この巨大なビルをたくさんの人で作ったこと』に感動しました。このことが、将来建築家を目指すことのきっかけになったと記憶しています。地元の中学校を卒業し、都内の私立高校に進学。高校2年生~3年生にかけて、進学先を「建築学科」かダムや橋を作る「土木工学科」にするか迷った時期もありました。結果的に、当時の担任の先生の勧めもあり、やはり建築学科に進学。大学4年間では、ともに語り合える友人、恩師を得ることができたことは、私の一生の宝物となっております。

ゼネコン時代

大学卒業後、都内のゼネコン会社に就職。ここでの10年間は、建築を学ぶための礎となった非常に大事な体験をしたと思っています。
ゼネコンでの仕事は、マンション、公共施設の新築工事での責任者として、朝早くから夜遅くまで働くのは日常茶飯事、2~3ヶ月休みなく働く事も度々ありました。社会人として仕事をきちんとすることのプロ根性を叩き込まれた、私の現在に至るまでの原点とも言える時期だったと思います。
辛かったことが多かったこの10年間の間に、結婚もし、2人の子供を授かった事に、人生の歓びを味わえたことも事実です。

丸平木材と借金

「自分の仕事への想いを、自分のための会社に使いたい」との一心でゼネコンを退社し、当時父が社長を勤めていた丸平建設株式会社に一社員として就職。就職して間もなく、多額の借金があることに驚愕。ここから借金返済の長い道のりが始まりました。木材、建材を工務店やリフォーム業者にどんどん売り、下請けでもなんでもたくさんの工事を請負い、とにかく売上と利益を少しでも得られるように、まさに身を粉にして働きまくる日々でした。
「社員にも苦労をかけましたが、いろんな人にも助けられた。」そして、「経営者として基礎を学ぶことの多い時期だった。」と、今振り返ってみると思います。

丸平建設の想い

紆余曲折があったものの、借財も少なくなりさらに父が引退したのを機に、自分のやりたい建築を中心とする仕事をすべく、丸平建設株式会社の社長として、平成16年頃より活動を始めました。
平成19年に、スーパーウォール工法(高気密・高断熱住宅)の導入と同時に、先輩・恩師の勧めもあり、東京スーパーウォール会に加盟。この会で、現場畑だけを歩いて来た私や社員たちは「国策を含めた木造住宅のあり方」を学び、そして、たくさんの工務店(ビルダー)の社長から、今現在も会社経営のあり方を学ばせてもらっています。

スーパーウォール工法で私の個宅(二世帯住宅)や色々なお客様の家を建てさせてもらった経験が、私たち社員と職方のスキルの向上につながっていることは、言うまでもありません。このことは、会社として大きな財産です。

私達は、お客様に「丸平さんに頼んでよかった!」と思っていただける施工を提供することをお約束致します。
そして、『心も体もあたたかい家づくりを提供すること』が私達の使命だと考え、実直に対応し、私たち自身が自負できる会社であり続けられるよう、これからも歩んでまいります。